日本語と中国語は、どちらも漢字を言語の骨組みとして成り立っている。漢字のなかには、一つの文字がいきいきとした画像として完成されているものもある。これは単なる意味を伝達する記号ではなく、われわれの視覚に直接訴えかけているものでもあるように思われる。中国語を母国語とする者にとって、日本語の仮名に引き付けられる時もあり、また漢字を「薄めた」後に残された線にいささかの違和感や困惑を覚えることもある。かなの存在は既に文法的なレベルだけではなく、漢字を見る我々の視覚にとっては、そのイメージを緩和するような働きをも持っている。かなは、漢字の偏旁だという定義がある。が、厚味のないかなの筆画が、漢字の群の中を織り込むように遊泳するさまは、まるで沙漠のなかにあわれてきたオアシスのようである。